世界遺産登録に向けての取り組みに関する調査報告書

「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」

世界遺産登録に向けての取り組みに関する調査報告書

 

○鹿児島県庁での調査

平成27年7月16日  午前9:00〜午前10:10

調査項目

明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域について

現地担当者

鹿児島県企画部 世界文化遺産総括監 田中 完 氏

鹿児島県議会事務局 政務調査課 第二係長 宮崎 剛 氏

 

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1 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は、旧集成館機械工場(現在の尚古集成館本館:鹿児島市)などを含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として本年、平成27年7月8日に世界遺産一覧表に記載。

⑴ 本遺産群の資産の範囲

19世紀後半より20世紀初頭にかけて、日本国は僅か半世紀で産業国家に変貌していった。この明治期の重工業(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)における急激な産業化の道程を時間軸に沿って証言する産業遺産群(現役産業施設を含む)により構成されている。これらを構成する資産は九州・山口地区を中心に、全国8県11市に立地し、地理的に分散しているが、群として構成遺産全体として世界遺産価値を有し、意義を高めながら、一つの範囲を構成している。(いわゆるシリアルノミネーション)

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⑵ 世界史的意義

重工業(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)は日本経済の屋台骨を支える基幹産業である。幕末から明治後期にかけて、日本は工業立国の経済的基盤を築き、急速な産業化を果たした。20世紀初頭には、非西洋地域の中で、他に先駆けて、産業国家としての地位を確立した。アメリカ軍東インド艦隊の江戸湾来航以来、徳川幕府が開国の方針に改めた後、僅か半世紀で、西洋の技術と伝統的な日本の文化が融合し、重工業の急速な産業化を進め、産業国家の礎を築いた事は、技術、産業、社会経済に関わる世界の歴史的発展段階において、歴史的価値、技術的価値、文化的価値の極めて高い、特筆すべき類稀な事象である。

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⑶ 構成資産

本産業革命遺産は、8エリア、23施設で構成される。

     萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、

松下村塾、

鹿児島 旧集成館、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝、

韮山   韮山反射炉

釜石   橋野鉄鉱山・高炉跡

佐賀   三重津海軍所跡

長崎   小菅修船場跡、三菱長崎造船所 第三船渠、

三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン、

三菱長崎造船所 旧木型場、三菱長崎造船所 占勝閣、

高島炭坑、端島炭坑、旧グラバー住宅、

三池   三池炭坑・三池港、三角西(旧)港

八幡   官営八幡製鉄所、遠賀川水源地ポンプ室、

 

平成18年に公募した当時は、13件だけであったが、平成23年には30カ所まで増えた。近代化遺産の専門家委員会により幅広く盛り込んでから絞り込みながらテーマの絞り込みとアウトスタンディングバリュー(不変的価値)を高めていった。(当初は薩摩焼なども提案されていた。)

 

2 推進体制

関係自治体の連携のもとに、世界遺産への登録を推進するため、平成20年10月29日、九州・山口の関係6県11市により鹿児島県知事を会長とする世界遺産登録推進協議会を設置した。(現在は8県11市体制)

また登録に必要な専門的な調査研究を行うため、海外専門家として、ニール・コソン卿(元イングリッシュヘリテージ総裁)ほか7名、国内専門家として、西村幸夫(東京大学先端科学技術研究センター所長)ほか6名、計15名からなる専門家委員会を協議会に設置した。

これはひとえに世界遺産への登録を実現する為には、専門家としても外国から見た妥当性という視点が不可欠との考え方によるものである。

更に、海外の専門家に資産構成の妥当性を協議してもらい、中立性を守ったため、資産構成から外れた自治体も納得しながら協力を得ることができた。

 

このプロジェクトは、平成17年に鹿児島県主催で開催された「九州近代化産業遺産シンポジウム」において基調講演を受けたイコモスの産業遺産事務局のスチュワート・スミス氏から提言を受けた事が重要なきっかけとなったものである。県においても外国からの専門家の視点を大いに取り入れ、練り直す必要があるのではないか。

 

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鹿児島県の遺産構成資産の視察は、7月15日午後3時から午後5時までの間、旧集成館副館長の案内によって行われました。

薩摩藩の歴史から島津斉彬の藩政まで詳細にわたる説明を受け、積極的に近代化を進めた姿勢が、日本全体の近代化の原動力となった事を実感することができました。

今回の世界遺産登録も、歴史の理解があってこそ価値があるものではないでしょうか。歴史を基にした構成遺産の説明を行えるボランティアガイドの育成が今後の課題だそうです。

 

○旧集成館(反射炉跡)鹿児島県鹿児島市

19世紀、イギリスやフランス、アメリカなどの国々が次々とアジアに進出する中、日本の南端に位置する薩摩藩は、外国の脅威に最初に接する所でした。1842年、アヘン戦争で清が敗れた後、薩摩藩でも、外国の進出に警戒する動きが強まり、1851年に薩摩藩主になった島津斉彬は軍備の強化だけでなく、殖産興業に取り組むなど、日本を外国に負けない強く豊かな国にする必要があると考え、鹿児島市磯の地に、『集成館』と名づけた工場群を築いていきます。近代的な大砲の生産や造船に力を注ぎ、反射炉の建造にも着手、やがて自力での反射炉建設に成功します。この反射炉は、「ヒュゲニンの技術書」の図面を基に地元の石積み技術を使って基礎を築き、薩摩焼の技術を使って耐火煉瓦を焼くなどして、西洋と日本の伝統技術を組み合わせながら建設するわけですが、一号炉は失敗し二号炉で完成しました。当時の職人たちの苦労は想像をはるかに超える困難があったことは推測できます。しかしそれを完成させる技術力はやはり外国と一番接している薩摩藩だからできたことかもしれません。

 

○旧集成館(機械工場)鹿児島県鹿児島市

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島津斉彬の亡き後、薩英戦争によって外国との差を見せつけられた薩摩の人々は、斉彬が行った集成館事業の必要性を再認識します。1865年には、英国に留学性を派遣するなど、西洋の進んだ技術や知識を積極的に学び、またオランダから優れた機械を直接購入することで、近代化・工業化を加速させていくことになります。

再開された集成事業では、製鉄や造船をはじめ、機械製造、紡績、ガラス工芸、薩摩焼の開発など、数多くの事業が取り組まれていました。これらの事業は、「強く豊かな国」を夢見た斉彬の近代化への想いを受け継いだ多くの人々の知恵と努力によって実現されていきました。

現在の旧集成館機械工場は、薩英戦争によって破壊された工場を、斉彬の意思を受け継いだ藩主・忠義が1865年に再興したもので、いまでは、現存する日本最古の西洋式機械工場でありますが、その外観は、当時の技術のレベルの高さを感じさせるものであり、本来耐火煉瓦で建造する建物を、頑強な凝灰岩の厚さ60㎜もの壁で造るなど和洋折衷の建物であることが、150年経ってもびくともしない理由の気がします。

 

○旧集成館(旧鹿児島紡績所技師館)鹿児島県鹿児島市

 

明治時代になって日本の基幹産業となる近代紡績業。斉彬は洋式帆船建造のための帆布を自分たちで製作するために紡績事業に力を入れたとも言われています。江戸・長崎で蘭学を学び、斉彬が進めた反射炉建設を担当した石河確太郎は、斉彬亡き後紡績事業の重要性を薩摩藩主・島津忠義らに伝え、イギリスから紡績機械を購入するように訴えます。その様な働きかけもあり薩摩藩はイギリスに使節団を送り、プラット社から紡績機械を購入、指導にあたる技術師の派遣も依頼しました。1867年、日本で初めてとなる洋式紡績工場である鹿児島紡績所が完成。イギリス人技師が滞在するための宿舎(旧鹿児島紡績所技師館)も完成し、技師たちは職工の技術指導にあたりました。 技師たちが訪れる前から、藩独自の技術で大幅織機を製作する技術をもっていた薩摩の人々は、わずか1年間で蒸気機関を動力とする洋式紡績の技術を習得します。この辺も薩摩藩の人たちのレベルの高さの一端を垣間見られるところであると思います。明治になり、その技術と知識は全国の紡績工場へと広まっていくわけですが、現在世界遺産登録がされた富岡製糸場もまたこの技術が起源らなっているとのことです。

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(副館長さんと共に!)

 

 

 

 

 

萩市における「明治日本の産業革命九州・山口と関連地域」世界遺産登録への取り組みについて

平成27年7月17日 午前9時 萩市役所

 

<登録までの取組について>

萩の産業遺産群は、産業技術導入の最初期の遺産群で「萩反射炉」

「恵比須ヶ鼻造船所跡」「大板山たたら遺鉄遺跡」「萩城下町」「松下村塾」の5つの資産で構成されており、産業化を目指した社会の全体像とその性質を明瞭に表している事に大きな価値があります。

萩市は当初萩城下町として、他の城下町と一緒に世界文化遺産登録を目指していました。江戸時代の城下町の街並みが残り、400年も前の商人の屋敷が現存しております。また、松下村塾は、明治維新の原動力となったことが多くの日本人を惹きつけておりました。

 

ところが、その後、鹿児島県から「明治日本の産業革命遺産」での世界遺産登録を目指すことを呼びかけられたため、萩市の構成資産を見直し、九州各地の自治体と一緒に協力しながら世界遺産登録を目指す事になりました。

 

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(萩のボランティアガイドによる萩市全体の説明)

今回、世界遺産登録が比較的短期間で成されたことと、以前は市民の認知度が低かった、日本の近代化を推し進めるうえで大きな役割を果たした反射炉や造船所跡などの価値が改めて見直されたことで、結果的に、萩市の貴重な財産が再認識された形になっている。

以前は、毎年200万人くらいの観光客が萩市を訪れていたが、近年、140万人程で推移していた。しかし、今年は世界文化遺産登録やNHK大河ドラマ「花燃ゆ」等の効果によって200万人をかなり超える入り込み客数となっている。

 

○萩市の構成資産の視察は、7月16日観光ボランティアガイドさんの案内で行われました。萩反射炉は、世界遺産登録前は、市民からもあまり注目認知されておりませんでしたが、急遽注目を浴び、現在、公園の整備と駐車場、トイレの整備が行われました。歴史的価値が、新たな観光資源を生み出しました。

 

 

 

 

 

○萩反射炉 山口県萩市

 

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反射炉は鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で、萩(長州)藩の海防強化の一環として導入が試みられました。萩(長州)藩は、1855(安政2年)反射炉の操業に既に成功していた佐賀藩に大工棟梁である藩士の小沢忠右衛門を派遣し、反射炉をスケッチして持ち帰ります。現在残っている遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)です。オランダのヒュゲニン原書によると、反射炉の高さは16mですから約7割程度の規模しかありません。また、萩(長州)藩の記録で確認できるのは、1856(安政3)年の一時期に試みに反射炉が操業されたということだけであることから、萩反射炉はこのスケッチをもとに試作的に築造されたと考えられています。 現存するのは韮山(静岡県)と萩の2か所だけで、我が国の産業技術史上大変貴重な遺跡です。

 

○恵美須ヶ鼻造船所跡 山口県萩市

 

1853(嘉永6)年、幕府はペリー来航の衝撃から、各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、のちに萩(長州)藩に対しても大船の建造を要請しました。1856(安政3)年、萩(長州)藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣します。尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝藏らとともに萩に帰り、近海を視察、小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定しました。同年12月には萩(長州)藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、スクーナー船)が、また1860(万延元)年には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長約43m)が進水します。丙辰丸建造には、大板山たたらの鉄が使用されたことが確認されています。現在、造船所跡には地下遺構と当時の規模の大きな防波堤が残っており、2013年10月に国の史跡に指定されました。

 

○萩城下町 山口県萩市

 

萩城下町は萩(長州)藩の政治的・経済的・文化的・軍事的な拠点でした。

藩主の居館や藩政の中心機関があった本丸や二の丸があった地区で、この一帯は国の史跡に指定されています。旧家の大邸宅や幕末や明治維新に活躍した偉人たちの住居がいくつも並ぶこの街並みは、歴史好きにはたまらない場所といえることは間違いなく、多くの観光客が訪れると伺いました。近年観光客の推移は減少傾向でありましたが、NHKの大河ドラマの影響もあり、回復傾向とのことでした。さらには 1874 (明治7)年、全国に先駆けて、萩(長州)藩のシンボルであった萩城を解体し、石垣を残すだけとなった城跡は、萩・長州】藩における近代化のストーリーの終焉を意味し、本丸は現在、指月公園として整備されており、春には600本余りのソメイヨシノが咲き誇り観光客をお迎えします。

 

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○松下村塾 山口県萩市

 

萩(長州)藩の兵学者吉田松陰が主宰した私塾です。木造瓦葺き平屋建ての小さな建物で、8畳の講義室と10畳半のひかえの間があります。 萩が生んだ幕末の志士吉田松陰は、萩(長州)藩が明治維新を推進した原動力となった人材を育てた人物です。ペリーが再来航した1854(安政元)年、松陰は25歳のときに伊豆下田でアメリカ艦船に乗り込み海外渡航を試みましたが失敗に終わり投獄され、のちに許されて実家(国史跡 吉田松陰幽囚ノ旧宅)に謹慎となりました。謹慎していた1856(安政3)年から門人への指導を開始し、1857(安政4)年に現存する塾舎に移りました。 1858 (安政5)年に閉鎖されるまでの約2年10ヵ月の間に約90名の門人に教えました。塾生からは倒幕の指導的役割を果たした高杉晋作や、明治政府の初代内閣総理大臣となった伊藤博文などを輩出しました。そのほか、日本の近代化、工業化の過程で重要な役割を担った多くの逸材がここで学びました。

現在では、吉田松陰記念館が建てられ国内だけでなく中国、韓国、台湾など近隣の外国人が観光に訪れ、いろいろな言葉が飛び交うようなスポットになっておりました。

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